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塩津スライダー

「働く人々の充実した仕事生活に貢献する」をテーマに

Entrepreneur
2017/04/17
インタビュー
  • 78
株式会社キャリアアンカー 代表取締役
塩津 真
(人間学類 1977年入学 / 大学院 1985年入学)

新設後まだ間もない筑波大学に入学し、より良い筑波大を未来につなぐべく尽力した世代。リクルートを退職後は、人事戦略コンサルタントとして企業をサポートし、「いい仕事をしよう」と問い掛けつづけ“意識改革”を呼びかけている。約40年近く、人と企業に向き合ったエキスパートが出した「いい仕事」の意味、そして目的とは?

新構想大学の4期生として入学

筑波大を目指した理由を教えて頂けますか。

高校時代、進学を考えていた頃に筑波大はまだ新しい大学で、教育理念や建学理念がしっかりと掲げられていたことに興味を抱きました。人間学類というくくり方も他大学にはありませんでしたし、なんだか面白そうな大学だなと。高校2年ぐらいから進学を志し、大学の4期生・人間学類の3期生として入学しました。

人間学類を選んだ理由は?

学校の先生になるつもりはなかったのですが、漠然と学校教育というものに興味があり、将来、学校教育に関する研究者になりたいと思ったのが理由です。

当時は、学生のほぼ全員が寮生活だったそうですね。

はい。寮では1人部屋を与えてもらえると言われて行ってみたら部屋に先人がいて。一の矢寮が建設中で間に合わないから、2人で部屋を使って欲しいとのことでした。皆、部屋にテレビがなく、外で遊ぶ場も少なかったので宿舎の誰かの部屋でずっと話をして過ごしたことは、今となっては良い思い出です。

そういえば昨年、筑波大のキャンパス内で同窓会があって久々に大学に足を運びました。私が学生時代に植えられた街路樹がすっかり大きくなっていましたね。当時は、講堂もなく図書館も在学途中にできるなど、建設中の場所が多かったんですよ。

塩津1

学校ではどんな勉強をされていたのでしょう?

教育学を学ぶつもりで大学に入りましたが、教育学よりも心理学のほうが面白い授業が多かったので心理学を専攻し、発達心理学に関する卒業論文を書きました。

私は人間学類の3期生として、1期、2期と試したカリキュラムや授業内容を先生方と一緒に練り直すなど、学生と先生との距離感がとても近かったことを覚えています。「新しい大学なのだから、何か新しいことをしよう!」と先生方も意欲的で、新構想大学ならではの新鮮な雰囲気の中で学べたことは印象深いです。

部活動はされていたのですか。

1年の時から混声合唱団に入り、かなり熱心にサークル活動に励んでいました。3年になると、4代目の団長として100人に近いメンバーを束ねていたんですよ。サークルの創始者であり、初代団長を務めた高橋基之さん(東京都茗渓会会長)とは出会いから40年以上経った今も変わらずお世話になっています。

その後、大学4年次に休学し、アメリカ・ニューヨーク州立大学に交換留学。

大学3年間はサークル活動に熱心だったもので、研究者になるには勉強量が足りていないことに焦りを感じ、交換留学制度を利用し1年間筑波大学を休学してアメリカに留学。日本に戻ってきてから4年生をやり直しました。

アメリカで学び得たこととは?

大学付属の幼稚園で教育実習をした時、それまで学んだ日本の常識とは全く違っていたことにカルチャーショックを受けましたね。基本的に、日本の幼稚園は集団行動を教えることを目的として皆で一緒に体操したり、気を付け、と号令をかけて並ばせたりしますが、アメリカの子供は授業中に突然イスから立ち上がって歩き回ったりして、とにかく自由。

最初は、なんだかびっくりしましたが、先生が特に注意しないのを見ていて「アメリカってそういう社会なんだ」と。日本には日本人を作るための教育、アメリカにはアメリカ人を作る教育があり、必ずしも「教育とはこうである」と1つに決める必要がないことに気付かされた経験となりました。

それは大きな学びでしたね。

他の国の留学生との会話の中で、私自身の無知を思い知らされる経験もしました。とにかく社会のことを知らない。世界の宗教や文化、歴史についてほとんど知識を持っていないことに気付かされたんです。アラブ系の学生に宗教論議を吹っ掛けられても答えられないし、日本と直接関係のある問題、例えば世界大戦前後の東アジア諸国との関係や国民感情についても知らないことだらけ。また、一生懸命喋ろうにも、つたない英語では伝わらないという悔しい思いもしました。

そんな経験を経て、帰国。就職活動に臨んだわけですが。

そんなことで、帰国した時には、興味・関心は学校教育ではなく、むしろ社会人育成、特に職業人育成に移っていました。ちょうどその頃に、NHKで、定年前の企業人に定年後の人生設計をさせる研修プログラムを紹介するドキュメンタリー番組があり、面白いなと思っていたら、それがリクルートのプログラムであることを知って。就職活動を通してご縁もありましたので、リクルート(当時は株式会社日本リクルートセンター)に入社することにしました。

リクルートを1年半で退社

リクルートでは、どんな仕事をされていたのでしょう。

人事教育事業部に配属され、色んな会社に人事テストや研修プラグラムを売ったり、人材開発の企画を立てたり。墨田区役所と一緒になって区内の中小企業の新入社員を100人以上集めて研修を実施するなど、1年目から面白い仕事をする機会にも恵まれましたね。

ところが、1年半で退職。

偉そうなことを言わせてもらうと、営業マンとしてもある程度活躍していたつもりですので、「卒業する」といった気持ちでした。最近、「入社3年間は辞めずに我慢しなさい」という話を聞きますけど、1年半で辞めた身としては、3年も我慢してたら次のステップに行くタイミングを逸してしまうと言いたいですよ(笑)。

それと、会社の経営方針が自分の考えたものとは違うかなと気がついたことも退社を決定付けました。“人材のプロフェッショナル”を目指すのだったら、もっと専門性を高めるためにも、大学院に行こうと。

ところが、筑波で開催された「国際科学技術博覧会(つくば85)」にリクルートの委託契約として参加されています。

ちょうどその頃、筑波大学人間学類の先輩でリクルートの人事教育事業部でもお世話になっていた中村直人さんが博覧会協会が雇用する600人ものコンパニオンの募集・採用・教育・運営マネージメントの受託の営業活動をしている最中で、中村さんからの依頼を受け、その組織体制や勤務形態についての企画書作成から、実際の会場での管理業務まで担当させていただきました。そして、この経験によって、将来の志向も「研究者」から「人事戦略の専門家」へと変わり、まさに今の仕事にストレートにつながっていくことになりました。

そして1985年、筑波大学大学院・経営政策科学研究所に進み、修了後は再びリクルートに入社されています。

人事教育やテスト診断をやっていた部門がリクルートから独立することが決まり、晴れて人事専門会社になる前提でリクルートに再入社し、その研究機関である組織活性化研究所の研究員となったのですが、翌年、リクルート事件が起こって分社が不可能に。

その後、組織活性化研究所の主任研究員から人材開発事業準備室の課長となり、新規事業開発の担当にもなりましたが、結局は自ら起業することを考えて、希望を出してコスモスホテル開発というグループ会社に異動して、人事課長として色々と実務の経験をさせてもらった上で35歳で独立し、今の会社を作りました。

独立をされて大変だったことはありますか。

独立当初はリクルートやグループ企業からの発注もありましたし、何か物を仕入れて営業するという仕事ではありませんので、1人の身軽さを感じていました。ただし、会社員と違って大変なことと言えば、入金が毎月コンスタントにあるわけではないことでしたね。今月やった仕事は翌々月払いと言われると、「翌々月まで資金繰りが大変だな」と(笑)。

そういった苦労はありましたけど、“やりたいことができる”ことに喜びを感じることのほうが圧倒的に多かったです。

塩津2

仕事を通して、印象的に残っている出来事とは?

人事の専門家がいない企業の顧問・アドバイザーとして社長の右腕となり、人材戦略や組織戦略を手掛ける仕事が増えていけばいくほど、「この企業に貢献できている」という実感が得られるようになったことですね。

企業は社長一代で終わりではなく、次の代へと事業を承継するための制度を整えることが大切ですし、そのためには人事や人材開発の考え方を整理するなど“仕組み作り”をすることが大切。そのような未来につながるお手伝いをすることが、私にとっても、仕事というものを長期的な目で見るようになった機会となりました。

仕事でのこだわりを教えて下さい。

企業やそこで働く人に「いい仕事をしよう」という意欲を持ってもらうこと。そして、そのために「何のために仕事をしているのか」という“目的”を明確に理解・共感してもらうこと。色んな企業でアドバイザーとしてお手伝いをすると、いつもこの結論に行き着きます。

特に新入社員に会って感じるのは、けっこう仕事を目の前の作業としか見ることができない人が多いことです。どんな作業にも“目的”があり、その“目的”は社会への貢献に必ず続いています。「どこの会社でも良かった。条件が良いところに入りました」という人はただの作業として仕事をしてしまって、物事がスムーズに円滑に進めば良しとしてしまう。それでは「いい仕事」はできません。そういう人たちに対しては、いつも「自分の仕事の目的を理解し、その目的に共感していることが大事です」と話すようにしています。

ご自身の仕事の“目的”とは?

企業のお手伝いをすることで「働く人々の充実した仕事生活に貢献すること」が私の目的です。これは時代や働き方が変わっても、普遍的なテーマなのではないでしょうか。

―では最後に、今後のビジョンを教えて下さい。

今後も色んな企業さんやその従業員さんに貢献すべく、精力的にやっていこうと思っています。ただ、60歳を前にして体力が落ちてきたことだけは確かなので(笑)、これまでも本を出版したり、専門誌に記事を書いたりしていますが、そういったメディアに訴えかけることをもっと意識しながら、仕事の仕方を転換していくことも考え始めているところです。

塩津3

お仕事だけでなく、東京都茗渓会のメンバーとして異業種交流会『茗渓・筑波大学産業人会』を開催されるなど多忙を極めていますね。

2年前に産業人会をスタートさせ、それから必ず月に一度は交流会を開催しています。

参加される方は東京都在住でなくても構いませんし、経営者でなくても構いません。企業人もフリーランスの方も、官公庁にいる方も対象ですので、ぜひHPで詳細を確認して、若手の皆さんにも積極的に参加して頂ければと思っています。これも「働く人々の充実した仕事生活に貢献すること」の一環と言えるかもしれないですね。

あなたの“つくばウェイ”とは?

とことん考え抜く精神。筑波大の卒業生に専門家が多いのは、とことん考え抜く精神が強いからではないでしょうか。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

都心の大学にはない環境を、とことん満喫して欲しいと思います。失敗を恐れず、色んな友達や先生方と交流を持って、濃い時間を過ごして欲しいですね。

プロフィール
塩津プロフィール
塩津 真(しおつまこと)
1958年生まれ、埼玉県出身。埼玉県立浦和高等学校を卒業後、人間学類に進学。卒業後は、株式会社日本リクルートセンター(現リクルート)に入社。1983年同社を一旦退職して委託契約で仕事をつづけながら1987年、筑波大学大学院経営・政策科学研究科(経営組織学専攻:経済学修士)修了を機に、株式会社リクルートに復職。組織活性化研究所主任研究員として教育プログラムの企画、各種人事診断手法の開発、企業の人材開発診断・分析・コンサルティングを行う。その後、株式会社コスモスホテル開発(リクルートグループ)人事課長を経て、1994年株式会社キャリアアンカーを設立。人事・組織戦略コンサルタントとして多くの企業のアドバイザーとして活躍するとともに、目標管理・人事評価制度の専門家として、多くの著述や経営指導活動を行っている。
基本情報
所属:株式会社キャリアアンカー
役職:代表取締役
出生年:1958年
血液型:A型
出身地:埼玉県浦和市(現さいたま市)
出身高校:埼玉県立浦和高等学校
出身大学:筑波大学
出身大学院:筑波大学大学院 経営・政策科学研究科
筑波関連
学部:人間学類
研究室:卒業論文:高野清純ゼミ(発達心理学) 修士論文:高柳暁ゼミ(経営組織学)
部活動:混声合唱団
住んでいた場所:一ノ矢学生宿舎(初代)
行きつけのお店:ふくむら(バイト生出身)
プライベート
ニックネーム:塩ちゃん
趣味:サッカー観戦
特技:カラオケ
尊敬する人:坂本竜馬
年間読書数:10冊程度
心に残った本:エクセレント・カンパニー、シンボリックマネジャー
心に残った映画:魔女の宅急便
好きなマンガ:童話:新見南吉「おじいさんのランプ」
好きなスポーツ:サッカー
訪れた国:5ヵ国
大切な習慣:早寝早起き
口癖は?:その仕事の目的・使命は何だ?
座右の銘
  • さあ、いい仕事をしよう!

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