つくばウェイ 〜 筑波大OB & OGの生き様をみちしるべに 〜TSUKUBA WAY ロゴ画像

  1. つくばウェイinstagram
  2. つくばウェイtwitter
  3. つくばウェイFacebook
渡部スライダー

美しい日本を投資で支える“自立した投資家”を増やしたい

Entrepreneur
2016/06/09
インタビュー
  • 23
複眼経済観測所株式会社 代表取締役
渡部 清二
(第三学群基礎工学類 1986年入学)

大学時代はこれといったやりがいもなく過ごしてきた青年が「日本一の会社に行く」と決意し、日本一の証券会社へ。バブル景気の崩壊、大企業の経営破たん、そして社内政治に巻き込まれて退社に追い込まれるなど、ドラマさながらの23年を送った。今は投資家の育成セミナーを実施しながら、“投資イコール儲けのため”という概念を覆すべく尽力。時代を読むことに長けた元証券マンが、投資のあるべき姿について熱く語った。

大学時代の反動で、日本一の企業へ

1986年に筑波大学第三学群基礎工学類に入学されていますが、なぜ筑波大を目指そうと?

高校時代は理系を選択していたのですが、受験科目の英語、数学、化学、物理のうち化学をほとんど勉強していなかったので、それ以外の3科目で行ける国立大学を探しました。すると北海道大学と筑波大学が見つかって、自宅のある東京から兄の運転で筑波大の見学に。ちょうど季節が秋だったこともあり、銀杏並木に感動して「筑波にしよう」と絞り込んだのですが、実は行ってから少し後悔しました。

なぜ後悔したのですか?

まず時代背景として、大学時代を過ごした1986年から4年間はバブル景気の絶頂期でした。「山手線の内側の土地を全部売れば、アメリカ全土が買える」と言われるほどの好景気で、私が内定をもらった1989年の年末には、日経平均株価が最高値の38,915円をつけたほどです。当時、東京都内の男子学生はブランドスーツに身を包み、親に買ってもらった外車を乗り回し、女子大生は「アッシー(車で迎えに来る男友達)」や「メッシー(ごはんをおごってくれる男友達)」を使い分けコンパやディスコに繰り出す、そのような時代でした。

一方のつくばには、もちろんつくばエクスプレス(2005年8月開通)もなく、東京から電車とバスを乗り継いで3時間という“陸の孤島”でした。そのため首都圏にある大学にも関わらず、ほとんどの学生が寮に入るという、非常に珍しい大学だったと思います。その筑波大学の周辺の状況は、元々の地元住人はほとんどおらず、夜7時を過ぎると大通り(東大通りや西大通り)には街灯がなく、車も走っていない上、なぜか濃い霧に包まれるという本当に暗くてさみしいところでした。ちなみに当時、東大通りや西大通りはあまりに車が通らないため、この道路は有事の際の滑走路としてつくられたという都市伝説が流れていたほどです。

普段の生活では携帯電話がないのは当然で、寮の部屋にも電話回線がなかったため、外部との連絡手段は共用棟の伝言の張り紙だけでした。つまり当時の筑波大生は、バブル景気に浮かれた世の中とは無縁で、完全に隔離された別世界を生きたわけです。そんな環境でしたから、正直に言うと当時は大学が嫌いでした。田舎で刺激がなさ過ぎて、ホームシックにかかったほどです。(笑)

何もすることがないと、勉強か部活に熱中する傾向にありますが?

部活は高校時代からやっていた水泳を続けましたが、体育会系は敷居が高過ぎて、結局、水泳同好会で気楽に活動していました。勉強はというと、エネルギーを転換する変換工学といって、宇宙船の熱を逃がすヒートファイブを研究するなどしていましたが、熱中していたかというとそうではなく、4年間を通して「何も成し遂げていない」というのが本音です。

学生生活を思い返して良かったことは?

良い面として、早くから親元を離れ、炊事・洗濯も自分でやったため自立心が芽生えたこと。陸の孤島つくば市で隔離された環境であるがゆえに、浮かれた世の中に影響されにくかったこと。そうしたことが“自立性が高く、群れない、媚びない、素直な”自分の土台を育ててくれました。このような筑波での環境のおかげで、流行に左右されず、しっかり自分自身を見つめ直すことができたことが、現在の本質を追及するという自分の仕事のスタンスに繋がっているのかもしれません。

渡部インタビュー4

就職活動で、野村證券へ。

大学時代にこれと言って「何も成し遂げていない」と認識していたことが私のターニングポイントで、そのコンプレックスがあったからこそ、就職活動では「日本一、もしくは世界一の会社に入りたい」と、銀行と証券会社に的を絞ることにしたのです。さらに、日本一給料がもらえる会社を調べてみたら、それが野村證券でした。理系の学生のほとんどがメーカーでエンジニアになっていた時代に、証券会社を希望する学生は珍しかったのか、第一志望で内定をもらうことができました。

しかも証券会社の花形である、営業職に就かれていますね。

金融工学の研究をする部署もあったのですが、野村證券に内定が決まっていた体育専門学群の同期に「この会社では花形である営業をやらないとダメだ」とあおられて、役員面接の時につい「営業を希望します」と言ってしまいました(笑)。結局、営業職を23年全うすることになりましたが。

渡部インタビュー3

社内の雰囲気はいかがでしたか?

生き馬の目を抜くどころではないほど強烈でしたね。大学の応援団出身者や体育学部出身者が多かったですし、当時は私のように地元が東京であっても寮に入らなければならず、寮には当然、上下関係がありました。朝から晩まで会社で働いて寮に帰ってくると、先輩に飲みに誘われて、断るわけにいかず飲み行って。すっかり酔っ払った先輩に「朝起こして」と頼まれて、朝起こしに行くと「なんで起こすんだ!」と怒鳴られる(笑)。そんな理不尽なことは日常茶飯事でしたよ。

どんな仕事をされていたのですか?

最初の10年は銀座支店、長崎支店、日本橋本店で個人投資家向けの営業をしました。銀座支店に勤めていた頃は、上司に「隣りのビルの全部の扉を叩いて、名刺をもらってこい!」と言われ、100枚もらうためには最低300件は回らなければいけませんから、それを10日間実践して1000枚もらって。その中から、ひとりお客さんができるかどうかといった感じでした。

体力も気力も必要ですね。

長崎支店にいた頃は、長崎県民より道に詳しいんじゃないかというほど隅々まで回りました。片道3時間かけて訪問したお客さんと商談をして、会社に戻ると「やっぱりあの件、やめるわ」と電話をもらうことはしょっちゅうで、精神的にツラかったですね。地方の人は面と向かって断れないのだと学びましたし、閉鎖的な地域もまだまだ残っていたので、居留守を使われたこともよくありました。

やりがいを感じたのは、どんな時でしょう?

入社後しばらくしてバブルは崩壊。株価が下がる一方で、1997年には四大証券会社のひとつだった山一證券が経営破たん。バブル経済崩壊を目の当たりにしてきましたが、2003年に日本全体が金融危機に陥る中、起死回生の三菱東京フィナンシャルグループの増資案件に関わり、金融危機を脱した時は証券マンとして企業や国を立て直す使命を感じました。

渡部さんの成績はいかがでしたか?

“数字が人格”と言われた時代の中で、紆余曲折がありましたね。私は理系出身だからと保険をかけて言い訳してみたり、ビリになった時はさすがに危機感が生まれて頑張ってみたり…。証券会社は完全に実績主義で、コミッションという手数料収入の絶対値で成績が決まる、非常に厳しい世界です。

毎日プレッシャーと戦いながら、10年が過ぎた頃。無理がたたったのか潰瘍性大腸炎を患い、2年間は入退院を繰り返しました。会社もほぼ2年間欠勤で、ミレニアムと言われた2000年を迎えたのも、翌年の21世紀を迎えたのも病院のベッドの上です。野村マンとして出世するかしないかの試金石である課長就任は4年も遅れを取りましたが、この病気がきっかけで、単なる数字だけの成績にとらわれない働き方をするようになりました。

渡部インタビュー5

どんな変化があったのですか。

病気の痛みと、精神的などん底を経験したことで開き直れたというか、「普通に会社に行けるだけ幸せなことだ」と。「成績を気にするあまり、欲にまみれて悪いことをしても意味がない。いつ死んでも悔いが残らないように」と思うようになりました。復帰後は機関投資家営業の部署に異動し、マイペースに仕事をしていたら、いつの間にか機関投資家からの評価がトップに。さらに狭き門の部長職にも昇進し、課長就任の遅れを取り戻しました。

2013年に退職に至った経緯は?

社内政治に巻き込まれ、退社せざるを得ない状況に追い込まれました。まさにドラマ『半沢直樹』の世界です。半沢直樹は左遷で済みましたから、「私が受けた経験と比べたら、たいしたことない。現実はもっとスゴいぞ」と思いながら、ドラマを観ていましたよ(笑)。結果論として振り返ってみると、退社という決断をして良かったと、今となっては悔いはありません。

自分で判断できる投資家を増やしたい

退社後はどのように過ごしていたのですか?

1年間は働かず、ハローワークに月1,2回行くぐらいで、のんびり過ごしていました。子供を連れて、これ幸いとばかりにあちこちに旅行にも行きましたね。収入はありませんでしたが、証券会社で常に数字と向き合っていた私が「お金がなくても楽しめる」との価値観を持っていたのは、病気をして貯金がゼロになった経験をしたこと、そして退社の2年前に発生した東日本大震災が影響しています。

東日本大震災からの影響とは?

直接、地震の被害を受けたわけではありませんが、それまでの価値観を覆された経験となりました。当時、野村證券はアメリカの金融会社リーマン・ブラザーズを吸収合併していたので、私の部署にはたくさん外国人が在籍していましたが、東日本大震災発生直後、彼らが一斉に日本から逃げ始めたんです。なんでも、外国特派員協会で「原発がメルトダウンした」と発表されたと。

まさか、日本政府は大丈夫と言っているじゃないかと思いましたが、2か月後に「実はメルトダウンしていた」と発表されました。その時、自分では情報の中心にいるつもりだったのに、ずっと洗脳情報に踊らされていたことに気づき始めます。

たしかに、政府やマスコミの発表を鵜呑みにしてはいけないと思わされた出来事でした。

あの一件で物事の仕組みを思い知らされて、目が覚めました。ちょうどその頃、仕事においても正しい事、正しい人間が必ずしも評価される世界ではないと思わされた出来事があり、退社後は「田舎に引っ越して、のんびり過ごそうか」なんて考えた時期もありましたね。

ところが退社から1年が経った頃、15年前に日本橋本店で一緒に働いていた先輩と偶然会う機会があって。その方は野村證券を退職し、色々な事業を起こしていたので「一緒にやろう」と誘っていただきました。特に興味を持ってくれたのは、私が15年以上続けていた“四季報読破”による企業分析です。

渡部野村證券時代2

上場企業の情報を掲載している“四季報”の研究ですか?

当時の上司に「読んでこい!」と言われたことがきっかけでしたが、ひとつひとつの企業の特徴を知ることで、世の中全体が生き生きと見えてきて「これは面白い」と。今では19年、74冊を読破しました。その話を先輩が面白がってくれて、「君の研究を広く活かして、投資家を増やすべきだ」ということで、2014年4月、先輩と共同で四季リサーチ株式会社を設立しました。

研究を通して見えてきたこととは?

欧米の利益至上主義で進めてきた金融のルールを、日本にそのまま落とし込むことの危険性です。日本では“株イコール儲けるためのもの”とのイメージが先行し、自国の経済を潤すため、日本の良さや伝統を後世に伝えるために投資するという発想がほとんどありません。

例えば最近、シャープが台湾の企業に約6000億円で事実上買収されましたが、シャープが持っている技術をゼロから作ろうとしたら何兆円かかるか分かりません。それを思えば、日本人が投資して助ける道もあったにもかかわらず、日本人投資家はメディアに踊らされて積極的にシャープの株を売りました。今後、日本の宝をみすみす外資系に持っていかれないためには、自分の頭で考えて投資することが大事になってきます。

渡部四季報

株は儲けを出すため、だけではないのですね。

一緒に会社を立ち上げた先輩は、無農薬、無肥料の野菜を作る事業なども推進していますが、無農薬はすぐに実現できても、無肥料は田んぼや畑を10年放置しないと元の力に戻りません。だから10年間、その土地を見守り、10年後に産まれるであろう価値に対して投資をしようと呼びかけるドキュメンタリー映画に出資し、その映画はJALの国際便で流れています。このような取り組みに対して私ができることは、自分で判断できる投資家を増やすことだと考えています。

そのための具体策とは?

一般の投資家への支援と育成、そして証券マン自体のレベルを上げるために証券会社で研修やセミナーも行っています。そうした幅広い業務を展開していくこともあり、2014年の四季リサーチ株式会社の設立に続いて、2016年1月には複眼経済観測所株式会社を設立しました。

こちらから営業しなくても、四季報から連載コラムの執筆を依頼されたり、東洋経済からインタビューのオファーがあったり、人気マンガの監修に関わらせて頂くなど、関心を持っている人が増えてきていると感じます。私の言っていることは王道だと思うのですが、商業的な派手さや面白味が無いため、意外にも世の中にそういうことを本気で推進している人がいないのでしょうね。

渡部セミナー2

まだまだ“投資イコール儲けるため”の概念は根強いでしょうね。

投資の意味を辞書で調べると、こう書いてあります。ひとつめは「利益を得る目的で証券や事業に資金を投下する行為」、2つめは「リスクを前提に“相応の見返り”を期待して、何かに金銭を投じる行為全般」であると。この“相当の見返り”を金銭的な儲けだと思い込んでしまっては、結局、1も2も同じことです。

ある成功者が残した「儲けようと思ってやった人で、成功した人を見たことがない」との言葉通り、私たちは昔話を通して“欲を出すと必ず痛い目に遭う”と教えられてきました。花咲か爺さん、こぶとり爺さん、おむすびころりん、舌切り雀など全てに共通するのは、儲ける目的だけで行動した欲張り者は失敗し、正直で無欲に正しく生きている人が報われるということ。これは、投資にも言えることだと思います。

今の時代において“相応の見返り”とは何だと思われますか?

「子供への投資」と置き換えて考えるとわかりやすいと思いますが、相手の成長を願うことだと思います。無償で無期限、損得勘定で考えずに出資する、いわば「無償の愛」といっても良いです。結果として子供が出世するかもしれないし、そうでなくでも「出資して大損した」なんて発想は持たないはずです。本来、投資とは子供への投資と同じで「これ自体が正しい行いなんだ」と思うこと。そうすれば、国や地域を潤すために有意義な資金が回るようになります。

今後どのように変わっていくことを期待していますか。

行き過ぎた資本主義は崩壊し、“和を以て貴しとなす”とする日本の価値観が世界を救うことを願っています。そのために、日本人が大切にしてきた価値観をベースとした投資に対する考え方を草の根の活動で伝えていき、共感してくれる仲間をどんどん増やしていきたい。日本のため、人にために投資することが、ひいては自分自身の喜びとなって返ってくることをひとりひとりが知ることで、世の中はもっと変わるのではないかと思います。

あなたの“つくばウェイ”とは?

筑波大の学生は環境のせいもあってか、野暮だとか世間知らずと言われることもありますが、“媚びずに素直でいればいい”。それが就職活動でも世間に出てからも、役に立つことを学びました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

学費を倍払ってもう一度入り直したい思うほど、筑波には学べる環境が整っています。都会の刺激は後でいくらでも経験できるので、今は筑波での学生生活を楽しんで下さい。

渡部 清二さんが所属する
企業紹介はこちらから
企業紹介ページへ
プロフィール
渡部プロフィール
渡部 清二(わたなべせいじ)
1967年生まれ、東京都出身。東京都立西高校から筑波大学第三学群基礎工学類に進学。1990年、野村證券株式会社へ入社。支店営業(銀座支店、長崎支店、本店)を10年、機関投資家営業を12年経験し、2013年に退社。2014年4月、四季リサーチ株式会社を設立、続いて2016年には複眼経済観測所株式会社を設立し、所長に就任。約20年間続けている会社四季報の読破による企業分析は、各界から注目を集めている。現在、投資助言、セミナー活動、メディア出演などを中心に、“自立した投資家”を育成するための活動を幅広く展開している。
基本情報
所属:眼経済観測所株式会社
役職:代表取締役
出生年:1967年
血液型:O型
出身地:東京都
出身高校:東京都立西高校
出身大学:筑波大学
所属団体、肩書き等
  • (社)日本証券アナリスト協会検定会員
  • 日本ファイナンシャルプランナーズ協会 認定AFP
  • 国際テクニカルアナリスト連盟認定テクニカルアナリスト
  • 景気循環学会会員
  • 東証ペンクラブ
筑波関連
学部:第三学群基礎工学類 1986年入学
研究室:小林康徳先生
部活動:水泳同好会
住んでいた場所:春日
行きつけのお店:らんらん、すみれ、珍来、魚八
プライベート
ニックネーム:にし
趣味:スキー、歴史探求、旅行
特技:四季報読破
尊敬する人:身近な人
年間読書数:15~20
好きなスポーツ:スキー、水泳、剣道(観戦)
好きな食べ物:和食全般
訪れた国:5か国
大切な習慣:家族揃っての朝食
座右の銘

New Column

Facebook

TSUKUBA WAYのメールマガジン登録で、大学の様々な情報をお届け!メルマガ登録はこちら

筑波大学・大学院の在校生または卒業生ですか?

powered byメール配信CGI acmailer