蹴球部では副主将として裏方に徹し、選手をサポート。卒業後は大手広告代理店に就職するが、交通事故で脊髄を損傷し、医師に「二度と歩けない」と宣告されてしまう。ところが当の本人は、海外でリハビリを行うなど再び歩くことに前向きで、同じ障がいを持つ人に力を与えようとビーチを中心にアウトドアイベントを主宰している。常人には計り知れないパワーの持ち主。その原動力になっているものとは?
5歳の頃、兄の影響でサッカーを始めて、中学時代にはヴィッセル神戸のジュニアユースに所属していましたが、ユースに上がることはできず。公立高校で県ベスト16止まりと伸び悩みました。筑波大蹴球部には2歳上の兄貴がいて、雰囲気を知っていたこともあり、「選手としてもう一花咲かせたい」と。そんな期待を持って筑波大を目指すことにしました。
最大の利点は、進路の選択肢がたくさんあったことですね。サッカーでは2年、3年までトップチームに入ることを目指してがむしゃらに頑張りながら、そこに入れば次の道が拓けるかもという目標を持つことができましたし、就活にしても、東京の私大の体育会に劣らないほど選択肢は多い。もちろん教員になることもできます。
はい。サラリーマンになってみると、「蹴球部での経験が僕の土台になっている」と実感することは、とても多かったです。
選手として目立てたほうではなかったので、それ以外の部分でどれだけ自分がキャラ立ちするか、何が武器になるかを考え抜いたことは社会人になって役に立ちました。
チームには同期が55人いて、全体では200人。その中で埋もれたくない、どうやって自分の立ち位置をつくっていくか、入学して最初の半年間はそんなことばかり考えていましたから。
「相手がどう考えているかを考える」。これが自分の仕事だと意識していました。例えば、トップチームの選手と下のチームにいる選手がうまくコミュニケーションをとれるようにつないだり、全体ミーティングの時に皆が気兼ねなく発言できるよう雰囲気作りをしたり。そういう役回りに徹していましたね。
「それぞれの立場の人がどういうことを考えているのか」を考えることは、広告会社で働く人間なら必要不可欠ですから、今、社会人生活を振り返ってみて改めて、筑波大での経験が活かされていることに気付かされす。
よく人に「試合中、めっちゃ応援してるね」って言われていたんですけど、僕自身、応援の力も勝敗に関わると思っていたので、自分も選手と一緒に戦っているつもりで応援していました。実際、応援が力になったのではないかと感じた試合が“フクアリの奇跡”(2007年関東リーグ最終節)。
交通事故で脊髄損傷を負い、入院していた時、今田傑さん(筑波大出身。2010年までソニー仙台FCで活躍)がお見舞いに来て下さって、その後「フクアリの奇跡の、あの1年を戦った仲間だからお互いに頑張ろう」とメールをくれた時は、選手にも、僕たちの応援の力を実感してもらえていたんだと感動しました。
公式戦に出たことがないにもかかわらず、副キャプテンに推薦してもらったので、それまでの頑張りを評価してもらえたんだなと。ただ、4年次のシーズン開幕前に疲労骨折のケガをしたことで、選手として上を目指すのではなく、最後の1年は影でチームのことを支える役割に徹しようと、チームの勝利につながる企画をいくつも考えた記憶があります。その中でも印象的だったのが、観戦バスツアーに力を入れたことですね。
それまでは応援する学生が喜ぶだろうと、確実に勝てる対戦相手の試合にツアーを組む傾向がありましたが、僕達はあえて難しい試合、かつ大事な試合にバスツアーを組むようにしたんです。
難しい試合でこそ応援の力が活きるからです。例えば、選手が普段なら出ない足が一歩前に出たりする。それが勝ちにつながった時は、選手と一体になれたことを嬉しく思いましたし、企画をする立場としてやりがいを感じました。
博報堂時代に3年半ぐらい、スポーツコンテンツに協賛を集める仕事をしていたので、そのノウハウを筑波大の後輩に伝授し、2017年からは蹴球部にプロモーションチームという組織が立ち上がり、学生自身が蹴球部のスポンサー集めをしています。
企業の人からも驚かれるみたいで、学生主体のプロモーション活動が功を奏し、最終的にユニフォームの広告枠は全枠完売しました。でも最初の半年間は全く売れず、学生も自信なさげに「こういう時どうすれば良いですか?メールを送るか電話で話すか、どっちが良いですか?」なんて聞いてきて、まだまだ未熟だなという感じでしたけど、半年後に一件のスポンサーが決まると、その後は次から次へと決まっていきました。
学生たちも今では「●●の企業さんと連絡がとれないんで、明日直接行ってきます!」なんて積極的にチャレンジするように、なんとも頼もしい存在になりました。
2016年アルビレックス新潟で活躍していた早川史哉という蹴球部の後輩が急性白血病になったと聞き、治療費を集めるために仲間と基金を立ち上げたことがきっかけです。
その後、社会人OBと学生とをつなぐ就活の応援をするなど、「後輩との絆を目に見えるものにしたい」と尽力しています。
早川の基金を立ち上げた後、小井土監督(蹴球部監督。つくばウェイvol.66で紹介)とお会いする機会をいただき、「学生が主体となって蹴球部の活動資金をつくり出せるような仕組みをつくれないだろうか」と相談を受けて。
そういうことを本業にしていた僕がお手伝いします、ということでサポートをすることになりました。立ち上げから一年が経ち、今では部内にプロモーションチームができて、学生がプロモーションチームという肩書きが入った名刺を配って歩いていますよ。
そうですね。今後は企業だけじゃなく、街ぐるみで蹴球部を応援してもらうための企画を続々に展開していきたいと、それも学生たちが考えています。楽しみにしていてください。
先ほど入院していたとお話ししましたが、実は2015年4月に交通事故に遭い、脊髄を損傷。下半身が完全麻痺していて、もう歩くことはできないと医者に宣告されました。
それでも少しの望みに賭けようと歩くリハビリを始めたのですが、完全麻痺の場合、日本では車いすで生活するためのリハビリが中心で、歩くためのリハビリを行っている施設はほとんどありません。そこで、海外経験のある妻がひたすら調べてくれて、リハビリ医療の最先端をいくオーストラリアで歩くためのトレーニングをすることになりました。
その頃に始めたのがRe:Walk Projectです。このプロジェクトは僕自身の「歩きたい」という気持ちだけではなく、同じように脊髄を損傷して歩くことを諦めかけている方たちを勇気付ける情報を届けたいと考えています。
また、帰国後は “須磨ユニバーサルビーチプロジェクト”を立ち上げました。
リハビリのために滞在したオーストラリアで、「ビーチにマット」という特殊なマットを敷けば車いすでも海が楽しめるという経験をした時、「車いすだから海に行けない」と諦めている人にも、この感動や感情を味わって欲しいと、日本で形にすることにしました。
ビーチ以外にも参加者のリクエストで畑や神社、山など色々繰り出しているんですよ。
そういった経験を通して、「あきらめの壁を超えられた」と感じることは障害を持つ人にとって大きな自信となり、心を豊かに、チャレンジングにしてくれますから。
「もう一度歩きたい」と思うようになった原動力は、蹴球部の仲間の存在です。あのメンバーともう一度サッカーがしたい、そんな思いが僕を突き動かしています。
事故をして入院した時に今田傑さんをはじめ、蹴球部の同期・先輩・後輩が全国からお見舞いに駆けつけてくれて、Jリーグで活躍している選手は僕を勇気付けるためにユニフォームをプレゼントしてくれました。そういったことが心の支えとなり、前を向かせてくれたのだと思います。
はい。周りの人に引き上げてもらったからこそ、次は僕が皆さんを前向きにしたいと。そういった思いでイベントを開催していますし、ブログでも自ら“ポジティブモンスター”と名乗って、リハビリの様子を前向きに伝えています。
そうだといいのですが、時には、同じ障がいを持つ方から「あなたはポジティブ過ぎて、私の気持ちを重ねるのが難しい」と言われることもあるんです。
脊髄損傷になり、排泄コントロールができなくなり、お恥ずかしいことに何度も失敗をしました。今でこそ食事、整腸剤など自分にあった組み合わせを見つけてある程度コントロールできるようにはなりましたが、オムツを履くことに対する自分の中での葛藤もありました。自己嫌悪に陥ることもありました。だから、僕自身、いきなりポジティブになったわけではないんですね。目の前の目標をクリアすることを積み重ねて今があります。
僕は、歩くことやスポーツをするといった先の目標ではなく、家から一歩でも外に出られたとか、そういったことからスタートすればいいと思います。
そういった1つ1つを積み重ねていくことで、じゃあ次はビーチに、その次は山に行ってみようかと前向きになってくれたらと思います。
2年に及ぶ妊活が実って初夏に子供が生まれる予定なのですが、その子が大きくなった時、いかに僕の人生を“すべらない話”として面白く語れるかが、人生の最終ミッションだと思っています。
例えば、サラリーマンとして活躍する人生も素敵だと思いますが、お父さんは事故をして車いすになって会社を辞めて、その後こんな人生を歩んだんだよ、と。たくさんの経験や面白いエピソードがあればあるほど、きっと面白い話になるだろうと思うんです。
入院中、夫婦で決めたことがあります。それは、「あの事故がなければ…」と考えるのではなく、「あの事故があったから、僕たち夫婦はこんなにも面白い人生になったんだ」と誇れる人生にしよう、ということ。そのほうが、よほど有意義な人生ですよね。
そんなことを妻と話し合って、事故をした後から夫婦でノートに夢を書き記しています。こないだ数えたら51個ありました。1つ叶えば消していくことを習慣にしているんですよ。
スキーでパラリンピックに出場することです。可能性でいえば、サッカーと感覚的に近い球技スポーツのほうが技術の習得は早いでしょうけど、それまでやったことのない種目でパラリンピックを目指すことの方が僕にとっては魅力的に思えました。そんな時、同じく障害を持った方で僕よりも10年早く、障がい者の人たちにアウトドアを楽しんでもらう活動をしている方に誘われて、フランスで初めてスキーに挑戦してみたんです。そしたら、めっちゃ楽しくて。これだ!と。
「スキーでパラに出る」と宣言して、実現できたら面白いと思いませんか?
パラ出場は僕にとっては人生の夢の1つ。その先にあるいくつもの夢を叶える手段として、ステップアップしていきたいと思っています。そうすれば、もっと色んな人と会えたり、色んな夢が実現するはず。
車いすだから出来ない、ではなく、車いすだから出来たんだ――と、そんな風に思える人生にしたいですね。
人間としての土台になった筑波大での“経験”。車イスになった今、「もう一度歩きたい」と夢を目指す最大のモチベーションは、筑波大で出会った仲間との経験や思い出からきています。
社会に出て壁にぶつかる度に、筑波大や蹴球部での経験を思い出し、原点に立ち戻ることも少なくありません。
筑波大に関わる皆さんは僕の仲間であり、ライバル。「夢を叶える」というテーマにおいて皆さんに負けないよう、今この瞬間を必死で生きようと、いつも意識しています。
皆さん、油断してると、車いすの僕にゴボウ抜きされますよ(笑)。
所属: | NPO法人 須磨ユニバーサルビーチプロジェクト・代表 |
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出生年: | 1986 |
血液型: | B型 |
出身地: | 兵庫県神戸市 |
出身高校: | 兵庫県立兵庫高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | 体育科教育学研究室 |
部活動: | 蹴球部 |
住んでいた場所: | 天久保二丁目 |
行きつけのお店: | 三水、コッタ |
ニックネーム: | ちゅんちゅん |
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趣味: | リハビリ |
特技: | リハビリ |
年間読書数: | 30冊~40冊 |
心に残った本: | 世界一ふざけた夢の叶え方 |
好きなマンガ: | スラムダンク |
好きなスポーツ: | サッカー |
好きな食べ物: | やきそば |
訪れた国: | アメリカ、オーストラリア、スペイン、フランス、イタリア |
大切な習慣: | 毎日決まった時間割で動く、毎日のリハビリ |
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